2016年5月19日木曜日

猪木-アリ戦のあった6月26日が「世界格闘技の日」へ

 1976年6月26日-。この日を示されて、すぐに答えが出てくる人は、もう少なくなったでしょうね。わが心の師、アントニオ猪木がムハマド・アリと闘った日。あれから40年を記念し、6月26日が「世界格闘技の日」と制定されました(日本記念日協会という、初めて聞く社団法人の制定ですが。取材に行ってきました)。

 頂上決戦をうたいながら引き分けに終わったことと、見せ場のない展開に終始したことで、世間からは酷評されました。でも、当時、新潟に住んでいた私は、新潟県レスリング協会の渡辺和義・理事長(明大卒=1956年学生王者)が新潟日報に「真剣だったアリ、猪木」と題した投稿をしていたことを、しっかり覚えています。

「世界格闘技の日」制定会見でのアントニオ猪木
 「最初はショーでやるものと思っていたが、あの動きは真剣勝負そのもの」との内容。格闘技のプロをうならせる内容だったことに救われた気持ちになりました。

■発端は日本レスリング協会の八田一朗会長

 この試合の実現は、レスリング協会の八田一朗会長がからんでいるんですよ。アリと親交のあった八田会長が、米国へ行った時にアリが「東洋の格闘家の挑戦を受ける。空手でもだれでも」とか何とか言って、それを帰国して話したら、どこかの新聞にそのコメントが載ったんですね。それを読んだ猪木が、「だったら、やってやろうじゃないか」となったわけです。

八田会長とアリがどうして親交があったかは分かりませんが、アリが来日した時、レスリングの全日本チームの合宿に来ているんですよ。日体大の藤本英男・前部長が現役の頃で、アリをタックルで抱えている写真、当時の機関誌に載っています。

 しかし、実現には1000万ドル(当時で約31億円)かかるので、いったんはあきらめたそうです。でも支援してくれる人が何人か出てきて、夢を追う男、猪木は損得勘定なしで実現へ動きだしたわけです(実現への経緯を書くと長くなるので、やめます)。

 話はそれますが、私が超安定企業をやめたのは、こうした猪木の行動に感化されているんです。ま、私のことはだれも興味ないでしょうけど。

スライディングしながらのキックに活路を見出した猪木
話を元に戻して6月26日の試合。今回、猪木を取材するにあたり、最近やっとDVD化された15ラウンドを見返してみました。1976年は、まだ我が家にビデオなるものがなかったのです。普通の家庭はない時代で、我が家に来たのは翌年夏でした。これも、かなり時代の先取りでした。一般化したのは1980年代の中盤くらいです。

 数年後、月刊のプロレス雑誌の「売ります・買います」のコーナーで(今ならYahooなどのオークションになるでしょう)で、ビデオテープをかなり高額で買いました。ベータマックスⅠです。と言っても、知らない人ばかりでしょう。

 今、このビデオを見られるデッキを持っている人は、いないと思います。私も見られません。かろうじてVHSのデッキを持っていますが、ここ数年間、使っていないので動くかどうか分かりません。

■すごい緊張感だった45分間

 というわけで、15ラウンドをフルに見たのは、35年ぶりくらいでしょうか。改めての感想として、「身震いがするほど、すごい試合だった」です。お互いの威信をかけ、一瞬のすきも見せない、見せられない攻防が続きました。末席ながら格闘技を経験した人間として、「八百長」「筋書通りの引き分け」という声が、いかに真実とかけ離れていたかを感じます。

 レスリングの世界選手権決勝でも、身震いする緊張に満ちた試合というのは何度も見ています。でも、長くても6分間です(12年前までは9分間がありました)。この試合は45分間ですよ! 

 総合格闘技なるものがなかった時代。今なら闘いのセオリーがあるので、打撃の選手と闘う時はこう闘うとか、組み付かれた時のパンチの威力は半減するとか、いろんなことが分かって、定石ができあがっています。当時は、確証ある闘い方はなかったのです。

 航海に例えるなら、今なら海洋図があって、衛星で自分のいる位置が分かって、雲の動きをキャッチして、一番困難でない航路で目的地に着くことができます。でも、コロンブスは水平線の向こうに何があるかはっきり分からず、自分のいる位置も太陽で推測するしかなく、衛星で雲の動きを知ることもできず、そんな状況で大海原へ出航したんです。大冒険だったわけです。

 試合では、猪木がルールでがんじがらめにされたことで、攻撃できずに凡戦になった、とも言われていますが、これは当たっていないと思います。猪木の技がもっと認められていても、猪木はアリを仕留めることができなかったような気がします。

 理由は、まずヘビー級ボクサーのパンチのすごさと、アリのデフェンス力です。猪木自身が言っていたことですが、あのフットワークは、すごかった。少しずつであってもローキックのダメージが蓄積されていたので、30ラウンドあればどうだったか分かりませんが、15ラウンドなら、アリは猪木にそうそう攻撃を許さないだけの防御力を持っていたと思います。


取材にあたり、20年前に発売された
ムックを読み返しました
あと、猪木はレスリング出身でないので、本当のタックルができなかったこと。ローキックだけでは、効くキックを放てても、グラウンドでコントロールまではできなかった。

 事実、アリはローキックを受けて尻もちをついたシーンがありましたが、猪木が立ち上がって次の攻撃を仕掛けるまでにアリも立ち上がっています。もし猪木が組みついてグラウンドにもっていく技術があったら、どうだったかな、と思います。

■猪木が勝てなかった最大の原因はロープブレーク

 それ以上に、仕留められなかったと思った最大の理由は、ロープブレークがあったルールだからです。猪木は何度か組みつきましたが、アリがロープにしがみつき、ルールでブレークになったのです。

 その後の総合格闘技、例えば「PRIDE」のようにロープにしがみつくのは禁止、というルールなら、組みついたあとグラウンドに持ち込み、ひじ関節を極めることができたのでは、と思います。

 アリは常にロープの近くにいて、リングの中央にはいきませんでした。組みつかれたらロープへ逃げる、が作戦だったのだと思います。

 いずれにしても、まったく未知の闘いに挑んだ両者の勇気はすごいと思います。実現に至るまでの、想像を絶するやりとりとともに、お互いの威信をかけた20世紀最大のスーパーファイトだったと思っています。

 ビデオを見て、ひとつ知りたくなったこと。試合前のセレモニーが終わり、第1ラウンドを前にして両陣営がリング中央で相対した時、セコンドのカール・ゴッチが挑発的な表情でアリに話しかけ、アリも応戦しているんですよね。どんなやりとりだったのかな、と。

 「猪木に組みつかれたら、どうやって逃げるんだね」「組みつかれる前にパンチをぶちこんでやるさ」「簡単には当たらんよ。組みついて、尻の穴に指を突っ込むように指示している」「できるものなら、やってみろ」「プロレスラーの強さをなめるなよ。猪木は必ずおまえを捕まえるさ」…、とかだったんじゃないかな、と。

 今回の猪木さんへの会見後の囲み取材で、私は猪木さんに聞きました。「マネジャーがシューズに鉄板を入れよう、と言ってきましたが、猪木さんは傷つけ合いじゃない、として、それを断ったと聞いています。入れれば、もっと大きなダメージを与えられ、仕留められたかもしれない(ただし、それほど強烈な鉄板なら、猪木の甲も骨折したでしょう)。それをやってまでも勝ちにこだわらなかったこと、正解でしたでしょうか?」

 猪木さんは、私の思った通りの答えをしてくれました。「そんなことをしてまでも、勝たなくていい」という意味の答え。

 格闘技は殺し合い、傷つけ合いじゃない。芸術なんです。ですから、レスリングは人類発祥の時から存在する最高の芸術、という存在になってほしいと思います。

 猪木とアリの死闘から40年、いろんなことを考えさせられた「世界格闘技の日」の制定でした。